トントントン
「はい。」とおじいさんのしわがれた返事がする。
二人で病室へ入ると、優しそうなおじいさんが、ベッドを起こしていた。食事が終わったところなのだろう。まだ、食器は残っていた。
「桜木さん。もう少しちゃんと食べないと。」
「今日は、食べた方だ。」
「ところで、今日は、相続放棄の件で、桜木さんがサインするための書類を司法書士の先生が持ってきてくれましたよ。」
「司法書士の神咲と申します。」
「あー。そうだったな。」
「念のための再確認です。桜木さんのお兄さんの相続を放棄するということでよろしいですか?」
「あー。間違いない。僕は、兄とは、昔から気が合わなくて、全く行き来もしなかった。だから亡くなったことも知らなかった。葬儀とかどうしたのか、亡くなった原因はなんだろかとか全く分からないが、考えないようにしている。どうせ、順番の問題。私もそう遠くないうちに向こうに行くのだろうし。」
「また、そんなこと言って。桜木さんは、まだまだ大丈夫でしょ。」と熊木先生がいう。
「分かりました。では、こちらにサインをお願いします。」
と、書類とペンを桜木さんにお渡しする。
「ここにお名前をお書き下さい。」
「あー。ここね。」
ゆっくり、多少字が震えているが、間違えることなく自署してくれた。
「ここに押印お願いします」
印鑑に朱肉をたっぷりつけて渡してあげる。
「あーありがとう。」
力がなさそうに見えたが、だいぶ力強く押印してくれた。
無事書類のサインが終わり、書類とペンを受け取る。
と、その時、突然腕を捕まれる。びっくりして、「わー」と声をあげてしまった。
どこにこんな力があるのだろう。かなり力強い。
声に驚いた熊木先生が、慣れたように声掛けをする。
「桜木さん、手を放してあげてください。全く、悪い癖なんだから」
「あーすまんすまん。つい」
神咲先生すみません。悪い癖で。
「いえ」平常心を取り戻しながら、答える。兄が、一人で病室に入るなと言った意味が分かった。
病院をあとにし、事務所へ戻る。
ちょうど兄もちょっと前に戻って来たようだった。
「相続放棄の書類、無事もらって来た旨報告する」
すぐに、書類を裁判所へ。
「はい。」
印紙などをはり、無事、ポストへ投函。1月28日。放棄は、無事間に合った。
ホッとした。だけど、なんかモヤモヤしていた。
つづく