「お兄さんおはよう!」
去年、司法書士試験に合格した私は、同じく司法書士である兄の事務所に見習いに来ている。
「お兄さんじゃない先生と呼びなさい」
「はーい。先生」 私と兄は、一回り以上歳が離れている。父が亡くなり、今じゃすっかり親代わりだ。
『りりりりりりーん』 事務所スタッフが出勤してきた矢先に1本の電話が鳴った。
スタッフが慌てて電話に出ると、よく仕事の依頼をくれる税理士の上条先生から兄への電話だった。
「おはようございます。神咲です。えー。えー。いやその日はちょっと。うーん。そうですか。では場所は、当事務所でということでしたら。なんとか…」電話を置き、兄はため息をつきながら手帳に予定を書き込んでいた。
「和花、10月20日空いているか?」
「ちょっと待って」手帳をパラパラめくる。「大丈夫。空いています」
「よかった。この日、決済が一件入っているのだけど、私の代わりに行ってくれないかな?」
「えっ決済?私1人で?」事務所に入ってから、決済はほとんど経験がなく、1~2度見学した程度。司法書士研修でも決済の実演を見せてもらったが、正直、自分には向いてないと思っていた。
我々司法書士は、不動産の売買で売買代金を支払う代金決済の事を「決済」と呼んでいる。
法律的には、売買契約は両当事者間の意思表示のみで所有権が移転する。
つまり、売主の「売ります」、買主の「買います」という意思表示だけで売買契約が成立し、所有権が売主から買主に移転する。しかし、売買代金を支払う前に買主に所有権が移転してしまうのは、とても危険だ。なので、通常の不動産売買契約には、「売買代金すべてを支払ったときに所有権が買主に移転する。」という特約がついている。
司法書士は、買主が売主に売買代金を支払い、売主から買主に所有権が移転する日(決済日)に立ち合う。
決済は、不動産という高額なものを扱うため、その責任も重く、新米の私には、重荷なのだ。
「今回は、銀行の融資のない現金決済。そんなに難しくないし何よりいい経験だと思うから。決済できない司法書士にはなりたくないでしょ?」
「まぁ。それはそうだけど・・・」
私が、不安そうな顔をしていると、
それを見透かしてか兄は、大きな声で「大丈夫!やってみよう!できるから!」と言ってファイルを渡してきた。
「はい・・・」
早速、ファイルを開き、今までのやり取りの記録を確認する。
まずは、不動産の登記簿謄本をチェックする。どうやら売買物件は、成田にある土地らしい。ということは、不動産の登記の申請は、成田の法務局に申請することになる。申請する法務局(登記の管轄)を間違えると登記が却下されるので、要注意だ。
決済場所は、今回の仲介さん(不動産の取引で、売主と買主の間に立って両者の契約を成立させる業者。)の事務所。船橋に事務所があるようだ。
なになに、売主さん、買主さんともに成田の人だ。売買する物件は、雑種地である土地1筆。
その土地を買主さんは、駐車場として使う予定らしい。
「内容確認はできた?」と兄。
「はい。一通り」
「当日までに何をしなければならないか、スケジュールを組み、必要書類の準備をしてごらん。決済は、99%事前準備にかかっているんだ。」
その日の夜
一番大事なことは、売主さんが、本当にその物件の所有者かどうかだ。所有者なら登記済証(権利証)をもっているはずだ。でももし登記済証を失くしてたら?
そんなことより、売主さん成りすましだとかないよね?なりすましだったらどうしよう。
見破れるかな。考えれば考えるほど、不安が膨らんでくる。
考えても仕方ない。明日、とりあえず仲介さんに電話してみよう。とベッドに入った。
つづく